忍者ブログ
「信心の休憩所 オアシス035」のサイト管理人のブログです。 詳しくは、メニュー欄の概要カテゴリをご覧ください。パスワード記事についても案内しています。 オアシス035についてはメニュー画面のリンクをご覧ください。 当ブログではない、オアシス035の内容に関するお問い合わせ、ご感想、著書に関する内容については、オアシス035のサイト内のフォームから御連絡ください。
ブログをご覧の皆様、こんにちは。m(_ _"m)
オアシス035サイト管理人です。

昨日の朝(4月7日)
日蓮正宗のお坊さんの中の誰かが、とても強く祈ってくださったようです。
ありがとうございます。m(_ _"m)
お陰様で、体調的にとても過ごしやすかったです。

(今回の記事は、かなり長いです。
区切り線を入れましたので、数回に分けて読む事をお勧めします。
お茶と一緒に、お楽しみください。~ 旦_(^^ ) ) 




御本尊様から、強い気配というか 「目を開けている気配」がありまして。
これまでも時々、とくに御本尊様が危険や、良くない状況を感知したときに
正面からまっすぐ警戒するような強い気配を感じたことはありましたが
今回はそれを超えるというか、警戒の気配ではなくて、
生命力のような強い気配を感じました。

なんだか体が楽で、過ごしやすいなあと思って御本尊様を見たら、
気配が凄いことになっていたという状況です。(;´▽`A``

(御本尊様が警戒している時は、御本尊様を見なくても
同じ部屋の中で「この気配は御本尊様から出ている」と
はっきりわかります。
それで、警戒するべき原因は何か? と探すわけですw

これまでは、夜に部屋のシャッターが開いたままになってたり、
父親が非常に良くない行いをした場合に、警戒の気配が強くなっていました。
「気が付け! 危ないぞ! 異変があるぞ!」と教えてくれているのだと思います。
年に数回あるかないかで、とても稀な事ですが。

今回は、警戒するべき事態とは異なる状況だったので、
体調がとても良いと感じたきっかけで
実際に御本尊様の方を見てから「ああ!」と気が付いたのだと思います。)

過去に、住職さん達が強く祈ってくださった時にも
呼吸がしやすくなったり、頭痛が軽くなったり、変な筋肉の緊張がほぐれるなど、
体の良い変化を感じることはありましたが、
御本尊様の正面から、ここまで強い意識や気配を感じることはありませんでした。

驚いて、御本尊様の御前に座って三唱をすると、
大石寺の総一坊、総二坊のある、広い道路と芝生の風景か浮かびます。
(大石寺の表玄関。
大きな道路と手入れのされた広い芝生を挟んで、左右に大きな坊が2つあります。)
まるで雰囲気ごと、大石寺に行ったかのような爽やかな空気も感じました。
自然がいっぱいで都会よりも空気が良く、マイナスイオンを感じるとともに
勤行によって作られる スッキリとした空気。

日蓮正宗のお坊さんのどなたかが、
真剣に私 自身について、祈ってくださった事は確実です。
そうでなければ、ここまで大きな生命力の気配は届かないと思います。
かなりの徳や法力のある御方だと思います。
本当にありがとうございました。

(なお、わたしは基本的にはゼロ感の人なので、霊感はありません。
片鱗のようなものはありますが、
健康上の理由から、鍛えるつもりはありません。

もし御祈念の中で、何らかのメッセージが込められていた場合は
申し訳ございません。<(_ _;)>
具体的な意思や意向は、汲み取れませんでした。

ただただ、体調が過ごしやすくなって、よく寝ることになりましたw
ぜひ同じ時間に一緒に勤行をしたいと思ったのですが、
体がホッとしてしまって…、
三唱が精一杯でした。すみません。私は本当に体の弱い人なのです。(;´▽`A`` )





(・ω・) こういうのってさ、 
受け手として、わかる人にはわかるんだけど
わからない人には、わからない感覚なんだよね。きっと…。

今回ほどの強い気配は、健康な人にもわかるような気もするけど
わかるなら、広宣流布はもっと進むというか
折伏に積極的に動ける人は、もっと多いはずだと思うと
つくづく、難しいなあと思います。いろいろと…。

結局、私が人生で色々あっても、信心を続けられる理由はそこなんだよね。
お寺の良くない部分、改善が必要な部分を見ても、
お坊さんから酷いことを言われても、
【 御本尊様と自分 】の関係に集中して、信心を続けていけるのです。
少なくとも、自行だけは守る事ができる状況。

いざって時に相談のできない住職さんでは困るし、
相談した結果、かえって信徒の信心の足を引っ張ってしまう住職さんでは
困る事に変わりはないけどw

(オアシス035は、書籍の目次を見ても分かるように
日蓮正宗の信徒さんの信心倍増と、
謗法の破折と、広宣流布のために書いていますが、
オアシス035が最も現実的にできる事は、信徒さんの信心倍増、
つまり 自分なりの信心の確証を得て【 御本尊様と自分 】の
関係を保てるように手伝う事です。

これがあれば、人生に大きな困難が起きた時はもちろん、
困った信徒さんやお坊さんに出会っても信心を続けていけますし、
信心の確証があるからこそ、化他行に意識を向けやすくなります。)




しかし、それでは困るわけです。
御本尊様の功徳を身に感じて、
自分自身は【 御本尊様と自分 】の関係に集中して信心を続けていけても、
お寺に新入信徒さんを受け入れる体制ができていない以上は、
折伏は進まない訳です。

お寺の受け入れ体制、具体的には、
私のような難病患者に代表される人々の信心の方法や
指導の方法についてです。

これについて書く前に、今のお寺に受け入れ態勢がない」とは、
具体的にどういうことかを説明いたします。<(_ _)>

(オアシス035の本編「サイト管理人の人生と信心」にも書いていますが、
HPにも書籍にも書いていない話について、ここに書きます。)

私自身が難病患者として直面したことですので、
健康な人には難しいかもしれませんが、雰囲気だけでも伝わる事を願います。

わかりにくい部分、説明や補足が必要な部分がありましたら
お気軽にコメントでお知らせください。よろしくお願いいたします。
閲覧者の皆様のご協力に、深く感謝いたします。m(_ _"m)




バセドウが寛解してから、東日本大震災が起きる前までの時期。

ある日、私はいつも通り、一人で御開扉に行きました。
一泊の添書登山です。
遠出なうえに一泊でもあるので、不測の事態に備えて 
普段通りインスリンポンプの備品なども持って出かけました。
(これは装着済みのポンプに不調が出ても、すぐに交換できるための備えで、
もし災害が起きて家に帰れなくなっても、十分に対処できるための備えでもあります。
地方に難病の対処ができる病院は少ないので。)

着山後に御開扉を済ませて、休憩坊で荷物を開けると
なんと、ポンプの備品がありません。(◎_◎;)

おかしい… いつもちゃんと入れていて、今回も入れたはずなのに…

それでも、どう探しても見当たらないので
すでに装着済みのポンプのインスリン残量は問題ありませんでしたが
万が一の不測の事態に備える意味では、少し心もとない状態です。

その上この時は、所属寺院の執事さんなどから
「二度と一人でお寺に来るな。お寺の敷地内で死なれては困る」と
直接 言われて数カ月しかたっていない時期でした。プレッシャーもあります。

自宅と大石寺は遠く離れており、簡単に行ける距離ではありません。
交通費も、体力も かなりの負担があります。
しかし、状況を思うとこれは…
悩んだ末に、御開扉自体は受けられたので、一泊しないで帰る事にしました。

ーーーーーーーーーー(ここから本題)ーーーーーーーーーーーーー

帰るために荷物をまとめていたところ、
同じ坊にいた高齢の信徒さんから、声をかけられました。
添書登山をすると、居合わせた信徒さんと話す機会は時々あります。
私が簡単に状況を話すと、その信徒さんは言いました。

「だめよ。帰っちゃあ。私は居た方が良いと思うわ」

そう言って、私を何度も引き留めようとします。

そりゃあ、私だって居たい。遠いところをせっかく来たのに、帰りたくない。
丑寅勤行にも参加したい。
だけど… 
所属寺院の執事さんの言葉や、内示部の執事さんの言葉が思い返される。
万一があれば今度こそ、登山を禁止されてしまうかもしれない。


(お寺は「一人では来るな」
「常に付き添いと参詣しなさい」と言っていますが
難病の自分にとって、自分の体調が出かけられる状態の時と、
仕事のある家族の休日が一致する事は、難しい部分があります。
なので、執事さん達の言葉は事実上「二度とお寺に来るな」と
言われているのと同じ効果を発揮するわけです。

難病患者の信徒の心に対しては、
お寺の想像を超えるプレッシャーがかかります。
難病といっても容体は様々ですから、
本当にその指導が適切であるかどうかは
やはり信徒さんから、病気について詳細を聞く必要がある訳です。
信徒から「説明します。聞いてください」と言われた時に、
「必要ない」などと断ってはいけないのです。

難病でも、行政から適切な助けを得られずに、リスクを抱えながらも
【健康な人と同じように、病気を隠して会社勤めをする人もいる】
という現実があります。

つまり、持病があっても 
任意の添書登山は問題なくできる人はいるわけです。
「健康な人と同じ条件下での毎日の勤務では、
数年や十数年で体が保たなくなっても、
任意で調子のいい時に、たまに遠出をするくらいは問題なくできる」
という人々です。
この状態の人々に「二度と一人で参詣するな」
「常に付き添いと参詣しなさい」というのは、
過ぎた指導ではないでしょうか。

それでいて、毎月の御講などでは信徒に対して、
不自借身命と言って、強い言葉で自行化他の信心を働きかける訳です。 
これでは一体、何が何やら…w 
お寺には、0と1しか存在しないように見えます。)


何より、御本尊様の功徳は私自身が体で知っている。留まりたいのは山々だ。
現実面を考慮して、泣く泣く帰る準備をしているわけで。

そこへ高齢の信徒さんは「信の一字で留まれ」と繰り返すわけですw
持病の薬がない、という形で健康上の問題があることは話しているのですが…。
(普通の人に「ポンプの備品が・・」と言ってもわからないし、
変な誤解をされても困るので、
簡単な説明として「持病の薬がない」と伝えました。)


結局、私はこの信徒さんに
「御開扉はもう受けたし、お山にはまた来られますから」
そう言って、家に帰りました。





はい。 もうお腹いっぱいですねw 
ええw  書いている私もお腹いっぱいですw ( ̄▽ ̄;)

この話、見るべきところが複数ある上に、
1つ1つについて考える方向性も複数あるので、
考えなくても 読んだ印象だけで、お腹いっぱいになりますw

私の力が及ばず、すみません。<(_ _;)>
大事な話ですが、難しいのでHPにも本にも書けなかったのです。




さてw 
私は最初に「お寺に受け入れ体制がない」という話をしていました。
具体的には「健康状態に問題のある人の信心や御開扉について、
お寺が現実的かつ具体的に、考慮していない」という事です。
0か1かで判断をしてしまう状況が、
医療の発達した現代の状況に即していないという事です。

一般的にも、古い時代ほど
「病人は出てくるな。寝ていろ」という感覚が強いのと同じです。
実際、医療が十分に進んでいない時代は、
病人は寝ているしかない状態が多かったことは 確かだと思います。
「できない事に無理をさせても、仕方がない」という事でもありますが。

お寺は、この古い時代の感覚から抜け出せていないように見えます。
現代では、重病人も自力で普通に歩いている場合があるのです。
そこへ「寝るか、起きるか」0か1かという応答しかないのは、
現実に合っていません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お寺では毎月の御講で 信心修行に強く励むように言われます。
(法話として、不自借身命を示す雪山童子や楽法梵志の話とともに、
法華経の優秀さや尊さ、信心修行の大切さなどが強く説かれます。)

この時に、住職さんから
現実に即した具体的なフォローの説明がない事が問題です。

もちろん、御講では 力のない人々のために
できる範囲での精一杯の信心と御供養が大切だ、という意味で
「貧女の一灯」や、
砂の団子を釈迦に供養した子供の話(アショーカ王の前世)も説かれますが、

実際に信徒の間では、どちらかというと 不自借身命として 
「身命を賭して信心修行に励む」という方向に意識を持つ人が多いのです。
これは最終的に、
「信徒がそちらに重きを置いてしまう伝え方を、住職さん達がしている」という事です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だから、先に挙げた話も出てくるわけです。
(「持病の薬がないからといって、下山してはいけない。
(祈れば功徳で解決するのだから、魔に屈するな) 」
と、本人は良かれと思って 
責任も考えずに危険な事を言う信徒さん。


しかも、これ1つではありません。
オアシス035のHPや本に記載したように
難病や障害にとって必要な、光を遮るための帽子やサングラスを、
実力行使で奪うような言動をする信徒さんも出てくるのです。
(東京のお寺での一件。)

そして、HPなどに記載してない話としては、もう1つあります。
所属寺院でのお彼岸の時、御焼香で並ぶ私に、
椅子に座ったまま、無言で私の服を引っ張り、自分の方へ引き倒して
帽子を奪おうとした信徒さんもいました。

着席した信徒さんが、立っていた私の服を無言で強く引っ張ったため、
目の不自由な私にとって、転倒の危険がありました。
この時は、離れた場所で見守ってくれていた班長さんが助けてくれましたが、
家族と一緒に参詣する所属寺院の御講でも、こういう瞬間的な危険があるのです。




日蓮正宗では
「自分の仲間・同様の境遇にある人、縁のある人をお寺に誘いましょう」
つまり、折伏をしましょうと言われますが、
難病や障害を負う私と縁のある人というのは、
同じ難病の患者仲間や、現実的なリスクを把握できる医療職者です。

彼らから見て、この日蓮正宗の状態はどう映るでしょうか。
患者仲間の中には、
難病を治したいあまりに、悪徳商法に引っかかってしまう人や
希死念慮の強い人も珍しくありません。
心が弱いのではなく、実際にそれほどの身体的・社会的負荷があるのです。
(詳しくは、オアシス035「サイト管理人の人生と信心」をご覧ください。)

このように日常的な心身の負荷が大きい人たちが、
不自借身命に伴うTPOに沿わない指導を聞いたら、
住職さんのいない場所で、
他の信徒さんから強く言われたら、どうなるでしょうか。


(私のような人間ばかりではありません。
私が強く見えるとしたら、それは窮鼠の状態が続いているからです。
社会的に「無敵の人」に近い状態だからです。

もしデスノートがあるなら、自分の名前を書くか、全人類と書くか。
そう考えるくらいに、日常的に大変な状況に置かれているから
思い切った事もできる。ほかに手がない上に、守るものもない。
あるとしたら、家族の御開扉の権利や、先祖の供養くらいな訳で。

それで「強い人・耐久力のある人」に見えている可能性があります。
実際は、とても か弱い人なのです。本当です。
え? ちょっとそこ、笑わないよ!?w ギリギリで生きてんだからね!w)


医療職者はもちろんですが
日常的に、心身の両面で「生きるか・死ぬか」の状態である難病患者たちが、
今の日蓮正宗の状況で入信した場合にどうなるのか。
現実の病状に合わない不適切な指導によって生じる生命の危機については、
紹介者の努力だけでは守り切れません。

お寺の今の状況では、
私は功徳の確証を得ても【 御本尊様と自分 】の信心、
自行の継続を守るのが精一杯で、
本当に助けたい「縁のある人の折伏」には、二の足を踏まざるを得ません。

(そもそも、信徒の健康状態に関わらず
必要な住職さんの適切な理解と協力が得られないから、
最終手段として【 御本尊様と自分 】の信心になってしまう。
そこ自体にお寺の課題がある訳です。)

このような現実的な問題について、
信徒に信心や折伏を強く働きかける住職さん達には、
自身が話す内容について責任をもって、よく考えて頂きたいのです。


この重要な問題が裁判や調停にならないのは、
世間的に、
宗教は任意であり、精神修養や気休めであるという認識が強いからです。
信徒であっても、功徳の確証を得る前の多くの信徒さんは、
その世間的な意識を持っています。だから、裁判や調停になることはない。
訴えることなく、
見切りをつけて退転したり、幽霊部員のようになって終わるのです。

誰かに相談したところで、
「じゃあ、止めたらいいんじゃん。そんな危ない宗教」と
言われるのがオチですからね。

しかし、現世安穏を謳い、日常的な信心修行を促す日蓮正宗としては、
その世間的な認識に甘えていてはいけないと思いますが、いかがでしょうか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日蓮正宗は正法です。そして大乗仏教です。
正法の信仰と功徳は、限られた人だけのものでしょうか?
健康な人だけのものでしょうか?
それは違うはずです。

釈迦も日蓮大聖人も、全ての人々を救うために法を説き、
御本尊様を顕されました。
多くの人を救うために広宣流布が必要であり、
それは慈悲の行いであると説いています。

広宣流布を目指すという事は、
より多くの人々の入信を目指すわけですから、
様々な状況にある人を想定しながら指導をする必要があります。

「難病患者は少数だから。母集団には健康な人が多いから、
そもそも、全ての人に対応する話し方はできない。」

それはわかります。
しかし、それならそれで 必ず補足を入れる必要があります。
この時に0か1か・是か非か、ではなくて、
時代に即した内容を話す必要があるという事です。

少なくとも、 結果的に御講を聞いた信徒が
他の信徒に対して、健康上の無理を強行させる言動がなくなる程度には、
御講での話し方や、法話の選び方を考慮する必要があるという事です。


( お寺にとって、難しい事なのは承知しています。
 ですが、実際に難病の信徒について、
 住職さんの言葉を借りて、信徒同士で度々の危険が生じている状況から、
 何らかの対処が必要である事は ご理解いただけると思います。 )
 
もし、この状態で 自分に縁のある同じ難病の患者さんに折伏をして、
その人が御受戒を受けたらどうなるか。
どこまで守れるのか。誰が責任をとれるのか。 

日ごろから折伏や広宣流布を信徒に話し、
お経に書かれているとはいえ「不自借身命」を貴び、
信徒同士で簡単に口にする環境を作り、それを黙認してしまう住職さん達には、
医療の進歩や 時代に伴う「受け入れ体制」について、
よく考えて頂きたいのです。


(「不自借身命。だから、信心修行に命をかけろ」という言葉が、
シャレにならないくらい重症な難病患者も 普通に生活しているのが現代です。
それは医療の進歩のお陰ですが、
それでも、外見は健康そうに見えても、

「実は必死に立っている。周囲に心配をかけないように、
病気だからと変な誤解や差別を受けないように、
自分が失敗する事で、自分だけでなく
他の患者仲間に社会的な悪い影響を与えないように。
日ごろからかなりの努力で、平気な様子を見せている」

という患者さんは少なくないのです。

こういう状況の人々にとって、
お寺はどういう意味を持ち、どういう立ち位置にあるのかを
想像してみてください。
心身共に非常に強い負荷の中で生きる人々が、お寺でさらに
「信仰のために命を惜しむな」と言われたらどうなのか。
住職さんが言っているからと、
TPOのわからない信徒さんから、しつこく言われたらどうなのか。
宗教に関係なく、日々を生きる事が既に命懸けであるというのに。

お経の説明として不自借身命を言うときには、
同時に必ず、補足する言葉が必要なのです。

これは今の時代の住職さん達が、釈迦が存命した時代の仏教として
「謗法者・異教徒の殺害」が説かれていることを説明する時に
「これは古い時代の話であって、
現代では謗法の人だからといって、危害を加えてはいけません」と
必ず補足しているのと同じです。

そして、御講で話題にする回数を1年に1回、あるかないかに
抑えられています。
同じ配慮が「不自借身命」にも必要なのです。


今のお寺の指導では、
「現代では、正法のためであっても謗法者の生命は大事だが、
 自分の生命については、昔に引き続き、
 正法のために雑に扱う事を推奨する」
という不均衡な状態になっています。結果的に、です。

お寺が最初から、そんなつもりで言っている訳ではないのはわかります。
それでも、不自借身命については御講で話される回数も多いために、
不適切な場面で「命をかけろ(薬がなくても下山するな)」と
信徒同士で言われる事などもあって、実際に危険が生じています。)


予防策として、
信徒の病状による申し出を住職さんが「聞いて、自分が理解する」だけでなく、
信徒の許可を得たうえで、御講で話しておくとか、
日ごろから何らかの手を打っておく必要があります。
そうでないと、家族とともに参詣していても、
御講や支部登山で混み合う中で、難病患者の信徒を守ることは難しいです。

「難病の中、サングラスや帽子を使いながら、
健康状態に合った無理のない方法で寺院に参詣し、信心に励む信徒さんもいます。
今、病気やケガで、具体的な信心や参詣の方法にお悩みの信徒さんは、
ぜひご相談ください。

健康状態は人によって様々ですから、
ご自身にとって無理のない形で功徳を得られる方法、
無理なく水の信心を続けていける方法を、一緒に考えていきましょう。」

など、言えることはあるはずです。 


(これは例えばの話で、この通りに話す必要はありません。
実際、もう少し工夫が必要だと思います。それはさておき。

今のお寺のスタンスは、強い信仰を促す日常の中に、
「お寺の敷地内で死なれては困る。病人は二度と一人でお寺に来るな」という
真逆の、極端すぎる指導が同時に存在する状況ですので、難しいですけどね。

多くを助ける為の法華経と御本尊様。それなのに
完全に健康な人だけが参詣に来たら良い、と言わんばかりの選民的な僧侶。
そんなことを言う僧侶を作ってしまうお寺の教育。
主となる意識はどこにあるのか。 単に保身?  ・・・だろうねw 

私は一応、法華経・大乗仏教の趣旨に沿って、
できるだけ多くの人が日常的に参詣し、信仰できる方向で考えていますが。) 


これで実際に、
該当する信徒さんが講中の中にいるか・いないかは問題ではないのです。
該当する信徒さんがいなくても、御講の度に住職さんが話していれば
信徒さんは「そういう人もいるんだな」と、認識する事ができます。
これにより、本山やイベントなどで、不意に出会う難病の信徒さんを、
健康な信徒さんによる 
信仰に起因するTPOに合わない不適切な言動、危険な言動から守りやすくなるのです。

(日蓮正宗の信仰が危険と言っているわけではありません。
TPOを適切に判断できない人による、信仰知識の運用が危険という事です。

宗教に限らず、
テレビや週刊誌で「〇〇が健康に良い(悪い)」という特集を見て、
全てがそれに当てはまると信じて、持病のある知り合いにまで、
強く勧めてしまう人がいるのと同じような状況です。

梅干しの健康効果を聞いて、腎臓病の人にまで勧めてしまうとか、
薬が体に悪いと聞いて、私のような難病患者の注射薬まで
悪しざまに言ったり、止めさせようとするとか。
 
それと同じようなことがお寺の中で起きているのです。
宗教・信仰の話である分、さらに危険度が増しています。
現実の状況、TPOを適切に判断できる人もいれば、
それができない人もいるので、
住職さん達には、御講での話し方に配慮をして頂く必要があります。

難しいのは、
「結果的に、多くの信徒さんにどういう認識を与えるか」を予測して話す事だと思います。
「住職として、強い話も優しい話も、両方しているから良い」という所で終わりにはならないのが、難しいのです。
しかし、今のままでは大きな問題があるという事は、ご理解頂けると思います。


宗教なので見えやすいですが、これは
「健康な人からの、病気への誤った認識による言動をどうするか」という点で
世間一般にもある問題であり、具体的な解決方法に悩むところです。

なので、難しいことは重々承知しております。(~_~;)
御仏智を頂きたいところです。
凡夫としては草の根的に、  
誤解によるダメージを恐れず、チマチマとやってくしかない感じですが…。
信仰においては、住職さんによる補足説明に期待をしています。)


(* ̄- ̄) そういえば。
かつて所属寺院の住職さんは、真剣に話す私に対して
「それでは御仏智は頂けない。ハッハッハ」と笑っていましたっけね…w
ふーん? 住職さんは御仏智が十分に得られているんですか。へ~えw
それで私のような信徒が出てきちゃうわけですか。 ほ~~w

ま、後に発症した目の重い疾患によって、
今は深く反省しているようですので、あまり言ってはいけませんが。

それでも、反省の方向性や認識が違うようで、3月の問題がありましたし。
なんだかね…。辛いわ…。(´・ω・`)
法華経がチートの証明っていうか「裸者の衣を得たるが如し」で、本当に…
理解力というより、終わりよければっていう… いや、だからこそ救いであって…
Σ(゚Д゚;) ハッ! 脱線ごめんw





つまり。
対策としては、御講の中での話し方、法話の選び方、
時代に適した補足や伝え方などで
少しはカバーできるところがある、という話。

他にも、

【 毎日 仕事や学校に行ける程度に健康な人が多い母集団の中で、
難病や 事故で障害を負った人などに対して、どう指導をするか 】
【 信徒とのトラブルに適切に対処して、
 信心倍増と広宣流布を円滑に進めるには、どうしたら良いか 】


という方法としては、次のようなものが考えられます。
(例です。このほかにも、色々あると思います。)

・末寺の住職さんだけに頼らずに、大石寺に相談窓口を作る。

(これはオアシス035にも 記載している内容。
健康状態に問題がある信徒さんだけでなく、多くの信徒さんに必要。
これは 末寺の住職さんに落ち度があるから、信徒さんが変な人だから、
という事ではなく、
ダブルチェックによって「信徒さんにとっても、住職さんにとっても、
より適切で、無理のない指導ができる方法」と考えて下さい。
大事なのは、信徒さんが心理的にも身体的にも、
必要以上に苦しい勤行をしなくて済むようになる事です。
次の勤行をいつも通り、自分からできるかどうか、続けられるかどうか。
その先に、広宣流布があります。)

・大日蓮出版から、重い病気や重いケガの信徒さんを対象にした
 信心の方法についての書籍(ガイド本)を出す。


(癌や早期に寿命が決する病気ではなくて、
 難病や慢性疾患など、生涯にわたって重い病気と付き合う状態の人に向けた
 信心の具体的な方法などについて書かれた本。
 
 住職さんが責任を回避して、難病患者の信徒の相談を聞かないのであれば、
 信徒自身が自分で工夫できる指針となる本が必要です。
 これがあれば、
 所属寺院の住職さんは責任を持たなくて済むので、楽になりますね?w
 書籍を書く人、編集する人、GOサインを出す人が頑張る事になります。)

・お坊さんの中に、医師や弁護士、カウンセラーなどを作る。
信徒とのトラブルを未然に防いだり、適切に対処できる事で、
信徒の信心倍増と、より円滑な広宣流布ができる。


 弁護士の場合
 仏法と世法の両面に精通した専門家となります。
 現代の人権は宗教と合わない部分もあるはずですが、
 信徒さんとの間に具体的なトラブルが生じた場合だけでも、
 宗教と世法のバランスをとって 
 個人的に話ができる人を作っておくことが必要です。

 カウンセラーの知識は、
 御講などで話す内容について、信徒にどんな受け止め方がされるかを
 事前に把握する助けになります。
 気づかないうちに、モラルに大きく反する話をしていないかどうかを、
 確認する事もできます。
 信仰との兼ね合いで、
 信徒とのトラブルを減らす伝え方をする助けにもなります。

 ただ、個人的には弁護士の方が良いと思います。
 カウンセリングには、変にモヤッとした… 
 相談者を煙に巻くだけの、解決にならない技術もあるのでw
 愛と受容を説くキリスト教の懺悔室や告解室から発生した技術なので
 そうなるんですね。

 医師の場合は、
 信徒の診察をするのではなくて、
 【 信徒の健康状態から、どのような信心指導が適切か 】を
 寺院の内部で相談できる人として、活躍してもらえます。
 医師免許を取得し、本山に戻ったら 本業は僧侶という事です


 信徒と直接 話せたら一番良いですが、今のお寺の様子を考えると
 【 普段は末寺の住職さんからの相談に答えて、よくよく困ったときや
 信徒さんに難病や重度の障害がある場合に、直接はなす 】
 という感じになるのが現実的かと思います。

 自治医大や産業医大など、卒業後に数年間、医師の仕事を行う方法であれば
 予算がなくても専門家を作れます。
 副業禁止とはいえ、広宣流布のために実際に必要な事であれば、
 問題にならないと考えられないでしょうか。
 日蓮大聖人ご自身にも、四条金吾殿という医師がおられましたし。

 ・・・ 信徒に誤った指導をして、数年後に信徒の病気と類似する 
 重い疾患を発症する住職さんを作るよりは、
 ずっと良いと思いますが・・・ おっと、誰かが来たようだw




 最後におまけw 「あったらいいな」の提案です。 】

・健康上の理由で、自力で勤行や唱題をするのが難しい人、
 お寺に足を運ぶので 本当に精一杯な人のために
 末寺の中に1脚、リクライニングチェアを設置する。


(面積的に設置が可能なお寺に限られるものの、弱っている人が
 休憩室などで、勤行や唱題を聞くことができる環境を作っておく。
 家族が信心に熱心であれば、家で勤行を聞くことができるけど、
 そうではない場合や、一人暮らしの場合は、これが大切になる。)




他にも色々あると思うので、
対策について、ぜひ検討して頂きたいです。
できるのであれば、書籍のあとがきに書いたように、
第三者機関の設置とかも、良いですよね…。

信心において、どこまでがお寺の考えるべきところで、
どこまでが信徒自身で考えるべきところなのか。
これをそろそろ、責任と共に考えた方が良いと思います。
これまで、指導者でありながら
あまりにお寺が関与を避け続けていたことに、目を向けてほしいのです。

信徒1人1人の信仰上の悩みが多いほど、
広宣流布や折伏のペースは落ちるし、幽霊部員は増えるのです。
ケースバイケースであっても、
お寺が責任を持つべきところを考える時期だと思います。

「責任といっても難しい」という事なら、
信徒への指導の仕方、話し方を改善する必要がある訳です。
それができれば、ここまで対策を考える必要はなくなります。


(たとえば・・・
規模や立場の違いで、行動の対象は変わります。
今の信徒に対する指導を、お寺が実行するとどうなるか。
それはおそらく、折伏としては邪宗の住職への破折や
邪宗の総本山への問答になるでしょう。
しかし、本山がそういうことをしているとは、聞いた事がありません。
信徒に対する指導と比べて、バランスが悪いですよね?

(実は、20年ほど前に
信徒さんが個人で邪宗の聖職者に折伏を試みようして、
その計画を所属寺院の住職さんに話した結果、
住職さんから真剣に止められてしまった様子を見た事があります。
計画の練り直しが必要という事ではなくて、
確実に「止めなさい」という制止でした。

その場面を見て、私と家族は「なぜ止めるのか?」と思いました。
御講での日ごろの指導を考えると、
住職さんとしては加勢するべき場面ではないのかと。
指導者・責任者として同行して、信徒を守りつつ、
邪宗の聖職者へ問答や破折をする良い機会のはずなのに。)

邪宗の僧侶や総本山への破折が 
信教の自由などに基づいて、世法に触れてしまった場合、
それによって宗門が存続の危機に立たされるという事になれば
そこまで動いて初めて「身命を賭して」と信徒に言えると私は思います。
(日蓮大聖人と同じことをしている状態であれば、言えるという事です)

単に「御経文や御書に書いてあることを話しているだけだ」といっても
実際には信徒の中で、
TPOも考えずに危険な形で誤用されている現実がある訳です。
そういうバランスも考えながら 信徒に話す事が必要だと思います。)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(・ω・) さてw  ここからは、オマケの話w 夢のようなものです。

実は、最後の対策に書いたリクライニングチェアについては
最初は常唱堂のような施設を考えていました。
複数名のお坊さんが交代で、3時間おきに1時間の唱題をしているとか、
そんな感じの末寺。

(実は健康な人でも、自分で勤行ができないほど弱っている時に、
誰かの勤行やお題目を聞くだけで体力が回復した経験がある人は
意外といます。
こういう施設があれば、信心の動機付けとしても非常に役立つはずです。
通常の末寺のように「信徒さんが任意で」という事ではなく、
施主がお坊さんである事と、1日に複数回ある事が特徴です。)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、人的資源の問題があります。
では、いっそのこと 「常時、宿坊ができる施設」を作るのはどうか?
温泉はないけど、雰囲気的に湯治の宿のような感じで。

この施設の案については、自分なりに色々調べた結果、
たとえ予算があっても、ほぼ不可能なことが分かりました。( ̄▽ ̄;)

近年、邪宗が布教とインバウンド需要の両方を見込んで
東京にその手の施設を作ったようですが、
日蓮正宗は「信徒さん以外から、御供養は受け付けない」
「僧侶は副業禁止」という決まりがあるので、ほぼ無理です。




まず法律として、
「宿坊」である限りは 年間に宿泊させられる日数が限られています。
さらに、一泊あたりの宿泊料金に上限がありました。
日数も金額も、通常の宿泊業務と比べて、法律で少なく抑えられています。

私が望む「いつでも宿坊体験ができる施設」を作るには、
坊(寺院、施設の一画)ではなく、最初から宿泊施設として作る必要があります。
宿泊施設の中に日蓮正宗の本堂を作って、お坊さんに常駐してもらう形。

( ー`дー´) そうなると。
宿泊業としては、まず法律的に
安全管理のために多くの設備投資や、専門の管理人が必要になってきます。
(電気配線とか、非常設備、警備など。
実は、宿坊施設であれば この部分の法律の規定は緩いのです。
これが、年間の宿泊日数が抑えられている理由の1つでしょう。
宿坊は、法律的にも本業は寺院で、宿泊はあくまでサブという事、)

宿泊施設の場合は、
建物の耐震性や電気関係、安全性などのコストがかかる分だけ、
やはり宿泊料金も 宿坊に比べて高く設定する必要があります。
さらに、フロントや客室の手入れとしての人件費もかかります。

他にも色々ありますが、
こうなると、お寺が主体でこういった施設を作るのは
日蓮正宗の場合は無理なのですね。(;´Д`A ```

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やるならあくまで、信徒の個人事業として宿泊施設を作って、
大石寺にお願いをして、ホテル内に本堂を作らせてもらう。
その許可を得るということになります。
その形態が教義として許されるかどうか? という問題もあるでしょう。

(何より、コストがかかる分だけ
集客が見込めないと簡単に倒産して、負債が残りますw)

もし運よく、正宗の末寺の近くに土地があって、
そこに自力でホテルを作る予算があって、ようやくできるかどうか
という所に落ち着くのが現実的で…。(;´Д`A ```




という訳で、捕らぬ狸の皮算用w
どこぞのエセ宗教法人のような気配さえしてきますが…w

さておき。
まあ、私自身にそんな予算を作れる健康状態はありませんし、
運よく、条件のいい土地があるとも思えません。
(もし土地があっても予算がね…w
土地代とともに、宿泊施設として耐震基準を満たすための費用が必要。)

そんなわけで。末寺の中で
「置く場所と予算があるお寺だけでも、
自力で勤行できない人が聞けるように、リクライニングチェアを置くのはどうか」
という案になりましたw
住職さんの勤行や、一時間の唱題を聞くだけでも功徳を感じることができるので、
信心の励みになるのです。

実は以前、関西のお寺で2件 見た事があります。
畳の休憩室に、大きなマッサージチェアが置かれていました。
なので、これくらいなら不可能ではないと思うのです。(。_。)ウン

私の案では電動のマッサージチェアではなくて、
リクライニングチェアで十分なので、予算は少なくなると思います。




と、いうわけでw  

(;'∀') なんか色々 書いてしまいましたが、
どうにかできたらなあ、という サイト管理人のボヤキでしたw

ここまで読んでくださいました閲覧者の皆様、
ありがとうございます。
本当に、お疲れさまでした。~~ 旦_(´▽`)


個人的には正直、もう十分なんだけどね。
【 御本尊様と自分 】の関係で落ち着いてるから。
自分とのトラブルについて、お寺にケジメはつけてほしいけど、
信仰という面では、自行は確立されているわけです。
お寺の受け入れ体制さへ整えば、
もう少し積極的な化他行だってできるわけです。

だけど、そこに至るまでに苦労をしている人がいる。
信じたいのに、信じられない人。功徳を得たいのに、信心に取り組めない人がいる。
もちろん患者仲間や、人生を諦めてしまいそうな人など、
個人的に助けたい人々もいる。
(宗教に関わらず、自身の因縁や宿業の解消に頑張っている人々。)

そんな人々が気にかかる。

自分の夢はある。
ティールームを作るとか、大きな水晶などを掘りに行くとか
人並みに経済的に自立するとか、
人権と、健康に生きる権利が得られる生活をしたいとか、
そういう自分自身の夢はあるけど、
今の健康状態と生活環境では 自分の人生さえ生きられない。
行政の支援も、まだ十分には届いていない。
(お陰様で、医療費はとても楽になりました。感謝です。)

そうである以上、宗教に意識が向く状態は続いてしまう。
自分の権利や安全が大きく侵害された状態が続いているからこそ、
オアシス035が作られたわけで。
(早期に解決していれば、ここまでやらなかったw
そして、自分の社会参加によって、もっと世の中を楽しくできたはずw)

まあ… どんなことも、
自分にできない以上は、それができる人に託すしかありません。
多くの人が、幸せに生きられることを願っています。

私の健康状態と 信徒の立場では、それこそ祈る事しかできませんが
健康なお坊さんであれば、祈る以外のことも具体的にできるはずです。
どんな人も、
安心して祈る事ができる環境が作られるように願っています。

(^▽^)/ では、私は次の世界に行ってきます♪

拍手

PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
プロフィール
HN:
ぺんぎん
性別:
非公開
リンク
P R
Copyright ©  -- オアシス035 サイト管理人のブログ --  All Rights Reserved
Designed by CriCri Material by 妙の宴
powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]