忍者ブログ
「信心の休憩所 オアシス035」のサイト管理人のブログです。 詳しくは、メニュー欄の概要カテゴリをご覧ください。パスワード記事についても案内しています。 オアシス035についてはメニュー画面のリンクをご覧ください。 ブログのコメント欄には、信心のご相談や、オアシス035の内容に関するお問い合わせ、ご感想、著書に関する内容などは書かないでください。 そちらについては、オアシス035のサイト内のフォームから御連絡ください。m(_ _"m)
前置きは、のちほどw

お待たせしました。(;´▽`A``

今回の記事は、私からのちょっとした提案です。
20年近く前からずっと考えていましたが… 言える立場も経験も得ることがなく、
今後も私の健康状態が大きく改善する事は見込めないので
ここで提案して、閲覧者の皆様に託すことにしました。

毎日、外へ仕事に出られる程度の健康を持つ方々に、活かして頂けたらと思います。

前半はどなたにも読み物として楽しんで頂けると思いますので、
お時間のある時にぜひ、ご覧くださいませ☆彡

経営学の立ち位置】

商学・経済学・経営学。
この3つの学問について。それぞれ、どんな特徴があるでしょうか。
何となくのイメージはあると思うのですが、ここでは生物の体でたとえてみます。

経済学 :  心臓
商学  :  小脳 (または、体・手足)
経営学 :  大脳 (または、脳)

3つの学問に上下関係があるという事ではなくて、どれも重要なのですが。
機能の違いを表します。
(経済学は心臓ですので、ある意味、ここが一番上かもしれませんが。)


【内訳(具体例)】

心臓。経済学。
全ての動物に心臓が必要なように、全ての商業活動には経済学・つまり会計・勘定が必要です。
仕入れや輸送、原材料、人件費などのコスト、売値などのバランスを計算できることが必須です。

次に、小脳(または体。)商学。
小脳とは、生命の基礎となる心臓の拍動・呼吸・内臓の機能などを司る大事な機関です。
心臓と共に、小脳や体があって、はじめて生物は生きる事ができます。
そしてはじめて、仕入れや行商などの具体的な商業活動を行えます。
これは規模の小さな生命体、昆虫や小動物、
古代の商人・小規模な商業活動・個人事業主の段階です。

心臓の経済学(会計)・小脳の商学(具体的な商業活動)これによって、
小規模の商売が成り立ちます。
一定の規模に成長すると、帝王学に発展します。

例: 古代の商人・個人の行商から、中世の貴族・豪商までの段階。(封建時代)
帝王学とは、経営学の祖。
貴族の子弟、豪商の後継ぎなどに代々教えられる家訓・家長や領主としての振る舞い、
使用人の扱い、領地の管理・運営方法、商売のノウハウなどが記されている。
それぞれの内容が、身分に該当する立場・出自・家訓を元に構成されており、
主人としての生き方や心構えと、経営学的な部分が、混然一体となった状態


最後に、大脳(または、脳)経営学。

大脳は、人間や一部の動物が持つ 高度な機能を有します。
本能を超える判断力、理性、社会性、認知機能などを司ります。

大脳は高度な機能を有しますが、それ単体では機能しません。
生物・動物の構造として、なくても生きていける部分です。
どのように生きて行けるか、という問題は生じますが、
なくても「生きては、いける」部分です。

しかし、生物が発達するには、この大脳の発達が不可欠です。
商経済の活動で言うと、経営学という事です。
規模が大きくなるにつれて、収支の管理(会計)や商業活動(マーケティングなど)だけでは、賄えなくなってくるのです。
企業同士・顧客相手などの対外的な判断・活動、新たな価値の創造だけでなく、
人事や総務・コンプライアンスなどに配慮した「企業内経営」が重要になってくるという事です。
売り上げや成果の維持だけでなく、より大きく発展させる事・より大きなシェアを獲得するために必要となる部分です。
自社の理念、企業の目標を外部へ提供するだけでなく、外部からの要望、期待される役割に気付いて、企業の内外における細かい部分にも配慮・対応し、一定の社会的な責任を負う。
それらが組織の発展とシェアの拡大に寄与する事実に直面した段階。






ここでは商業活動とひとまとめにしていますが、
自社の製品やサービスに、適切な責任を持つという意識と行動が必要になるという事です。
業種によっては工場の管理・研究開発に伴う環境対策、個人情報などの適切な取り扱いが重要になるという事です。
個人情報の保護・取り扱いはもちろん、工場の排水とか、排ガス、
有害な廃棄物の適切な処理・扱いに配慮する必要が出てくるという事ですね。

人事・雇用・労働環境の整備・ハラスメントなどの対策と共に、これらをクリアしないと企業の発展は頭打ちとなります。
トラブルや問題が露見した時に、適切な対応や再発防止策を取らなければ、
どれだけ良い製品を作り、良いサービスを提供していても、その企業・組織は潰れてしまいます。

【企業内経営が不適切であったり、製造物責任を負わない組織
  =社員・従業員や顧客の声を適切に活かさない組織
  =ボトムアップを行わない組織は、
持続不可能だからです。】

たとえ倒産までいかなかったとしても、それ以上の発展が望めない事は確かです。

宗教組織も例外ではありません。そして、組織を人間が作る以上は「絶対」はあり得ません。
常に伸びしろ(課題)があるのです。

工場で製品を作る企業の場合、大企業であるほど【危機管理マニュアル】を作っています。
法律や規約に則って厳重な安全対策を施したうえで、尚且つ、万が一の事故対策のマニュアルを作っています。
製造工程の再確認や、事故を防ぐための従業員の疲労・注意力の持続に配慮したタイムシフト管理などのマニュアルを作っています。
(B級の組織は隠蔽マニュアルを作りますがw 精神論や根性論を振り回し、ブラック化します)
製造業だけではなく、医療・介護福祉、各種相談業、飲食・宿泊業そのほか人的サービスを提供する組織にもこれはあります。
(ないのは、不祥事が起きてもナァナァにする行政や政治くらいじゃないですか?w)
真っ当な経営・運営を行う組織、大企業ほど、ここを怠る事はありません。
つまり、宗教組織でもこれは必須です。

これを「御奉公」の言葉や、精神論で軽視すると、その組織の発展やシェアの拡大は見込めません。

存続できたとしても、永遠に零細企業・零細組織のままです。
どこぞの宗教組織が掲げる「シェア拡大」には、ほど遠くなります。(-_-;)




(御奉公とか、精神論で無理を通し、合理性やモラル・労働環境を軽視するという事は、
封建時代の悪しき習慣でもあります。
その理由は、身分制度がなくなった現代では雇用主に権威がない上、不景気によって
奉公人・社員の生活基盤を最後まで、十分に支えるという機能がなくなっているからです。
福利厚生が充実した状態での終身雇用的な・・・ね。

言い換えると、公私にわたる具体的で適切な面倒見ということです。
日蓮大聖人も釈迦も、これをやっています。
(阿那律尊者、四条金吾殿など。
信仰や修行によって大きな困難に置かれた者に対して、具体的に関わっています。
全ての僧侶や信徒に対してではありませんが、確実に責任を負っています。
仏法を教えてくれる人、という恩だけではなく。
恩情という名の責任ある行動と姿勢によって、信頼を獲得していたのです。)

だから「主君の恩・御奉公」という働き方も成り立つのです。
現代の会社組織や宗教組織に、それは見えません。
(現代では、不備の多い行政の生活保障や、労基法などが担当する事になりますが、
結果的に、組織に対する御奉公・組織への恩という心は、生じにくいです。)

組織の規模が大きくなってきたにもかかわらず、運営が帝王学のままだった場合。
能力のある人間がトップに立てば、トラブルに対して上手に切り分けて対処できますが、
そんな判断力やバランス感覚に優れた傑物が生まれる事、トップに位置する事は稀です。
通常は、創業者の言葉や古い習慣を、時代に応じて適切に活かせない場合が多いです。
その結果、成長は頭打ちとなり、
良質な製品やサービスを保つ事ができたとしても、シェアの拡大はできないのです。
だから経営学が必要なのです。適切な危機管理マニュアルなどが、必要になるのです。

(超優秀な人物・傑物がトップに居続けるのであれば、帝王学のままでも成長を続けていけるのですが、そんな優秀な人物が、代替わりの度に現れることは  まずありません。

創業者が定義した原則に対して、ケースごとに臨機応変に調整ができるのは、創業者本人だけです。後世のトップがそれを調整するという事は「必要があったとしても、バランスを破壊しかねないので、怖くてとてもできない。」または「調整に伴う会議や準備・方々への配慮が面倒だ」というのが常です。その結果、組織の発展やシェアの拡大は望めないままになるのですが…。
このような原則の調整に関わる悩みを突破し、その上で良い結果を出せる傑物というのは、まず現れません。  たとえ組織の中に存在しても、そこまでの人材は「部下として扱いにくい」と判断されて、トップへ上る前に排除されてしまう場合が多いからです。)

経営学は実践の学問です。
経営哲学や経営理念という言葉がありますが、頭の中だけで終わらせてはいけません。
現実へ適切に反映させることによって、初めて意味を成すのです。)





(‐ω‐)_ さて。
私が何を言わんとしているか、見えてきたと思います。
もちろん、単に3学問の違いを知るにとどめても構いません。
その違いを考えるだけでも、面白いですから。

(3つの学問の違いについて、それぞれの学者に聞けば異なる回答が出ると思いますが
経営学士による大まかな説明としては、そこまで的を外していないと思います。(^-^; 
ざっくり、わかりやすくを目指しましたw 

なお、経営学は「若い学問」と言われます。その理由は、前述のとおりです。 
そして、組織の規模が育ってから必要となる学問です。
初期の段階では不要。
中規模では帝王学でもやっていける。ワンマン経営・同族経営のような状態。
経営学は大規模な組織、シェア拡大を目指す時に、必要不可欠となる学問です。)




Plan・Do・See 
この中で、PlanとDoができていても、Seeの部分で「見たい場所しか見ない」のでは
意味がありませんね。
見たい場所しか見ないのであれば、次に立てるPlanが徐々に的外れになって、
より良い組織の運営、発展を目指す運営はできません。

将来のためにも、もう少し視野を広げて運営してほしいと思います。

どんなに創業者が優秀で、どんなに素晴らしい理念があって。
どんなに価値のある製品やサービスを提供していても。
帝王学のままでは、大きな組織にはなれません。老舗の和菓子屋のようなものです。
その製品の良さを知る、古くからの固定客は離れないので存続はできる。
でも、新しい顧客を呼び込めない。結果、大きな発展やシェアの拡大はできません。
帝王学を経営学に進化させる事ができた時、発展とシェアの拡大ができるのです。

創業者からの帝王学を経営学に進化させるとして。
後に成功する企業や組織は
「創業者の理念を壊すことなく、理念を上手に活かして、時代に合わせた運営を続けています」
これは難しい事であり、この舵を切る時期の代表者は、大きなプレッシャーと 組織の内外の賛否に苦しみます。

しかし、組織の発展やシェアの拡大を思うなら、避けては通れない道です。
避け続けて、ある日に露見した不祥事を皮切りに、長い低迷の時期に入ったり、
組織自体が潰れてしまえば、元の木阿弥です。

どうか、良い組織には頑張ってほしいですね。

大切な組織であるほど、いきなり舵を切る事はできないでしょう。
舵を切った結果「失敗しました。潰れました。思わぬ悪い改変が起きました」では
済まないでしょうから。
だからこそ、社員や顧客の声を日常的に吸い上げる事から始めては如何でしょうか。
シェアの拡大のために、創業者の理念を守り活かした、時代に合わせた運営を。ぜひ。




(世法であっても、憲法や六法をそのまま当てはめた運用はしない訳です。
それが、裁判官が人間である理由。
時に臨機応変に、時代や状況、社会通念を交えた判断が必要になる場面があるから、
機械やAIに任せることはできないのです。
世法と仏法は違うと言いたいでしょうけど、仏法は基本「あの世」を基準に語られています。
それを「この世」に浸透させるためには、広めるべき「この世」の基準を踏まえて伝える必要があります。【最終的には、必ず仏法の基準と相対させる】という目標を念頭に。
広めるフィールドを最初から無視したやり方をしては、いつまで経っても広まらないでしょうね。
仏法の基準での理解と判断は、修行・自行においては必要不可欠であっても、広める化他行にあたっては、適度に調整する必要があります。

学者や、世間的な感覚に不慣れな僧侶の基準で判断するのではなく。
世間から見て、受け入れられるやり方が必要です。
もちろん、この世の視点しか持たない世俗の声を直接、取り入れるという事をしては、
成仏という目的に対する弊害も出ますから、
専門家である僧侶にもっと、世間を肌で知る機会が増えると良いのですが…。

だからせめて、いわゆるスーパーの「お客様の声」的な目安箱や、
監査機関、オンブズマンなどを作るのはどうかと・・・w
そういう担当部門やシステムを、内外に作るのはどうかなと・・・。(;^_^A 

反響は、組織を映す鏡です。
それが全てではなくとも、自分の姿を少しでも見る事、対処する事。
シェアの拡大を目指すなら、その勇気と努力は必要です。

まぁ、まずは… 上の人間が、仲間内の声=現場担当の住職や、
時代の感覚を反映する若い僧侶の声を聴く事からだろうね。(;^_^A 
僧侶の中にいる、広宣流布や信心倍増に大きく貢献できる優秀な人材を左遷したり、
自分から出ていくように仕向けたり、つま弾きにしではダメよ。
(私が知るだけでも、3件あります。)
上がどこまで、いつまで漬物石になってるんだか・・・w

中核の修行の方法と、シェア拡大の方法は、全く同じ感覚では成り立たない。
その現実を知らない・理解できないから、左遷をするのでしょうね。
信徒が折伏を行う場合、お寺の指導を参考にしますが、結果的には、それ以外の方法でアプローチする事も多いです。

それ以外の方法。つまり、相手の状況や時代に合わせた  あの手・この手の方法であり、僧侶の中では左遷対象になるような方法もある訳です。臨機応援なやり方と言いますか…。これを「御仏智」と言う場合もありますが、ようは正法へ導くための【臨機応変なあの手・この手】です。 

信心倍増や広宣流布に大きく貢献する能力がある僧侶、優秀な人材を左遷するというやり方は、
折伏における臨機応変な対応を信徒にさせておいて「僧侶が指導者として広宣流布に動くとき、その考えを示した時には、TPOに合わせた臨機応変な方法は認めない」という様子に見えるのです。
実際の仏道修行(自行)においては、僧俗ともに確実に原理原則に則った方法になりますが、
折伏・広宣流布(化他行)については、多少なりともそこからズレる現実・一時的にもそうならざるを得ない現実が既にあるというのに。
まさか・・・
「僧侶と信徒は違う。役割が違う」とでも言うのでしょうか? 
僧侶は導師である以上、修行者である以上、広宣流布の為であっても、
1ミリも道を外れることは許されないと?
学術論文の中で、日蓮大聖人を日蓮上人と書くだけで、
つま弾きにするほど悪いと?(必ず大聖人じゃなきゃダメらしい。) 
信徒は導師になる事はないから、何をしても良いとでも?
立場や役目が変わろうとも、折伏や広宣流布に必要なものは何か、
という現実は変わりません。
慈悲心って、責任って、何だろうね?w

僧侶として同じ志を持つ者、同じように教育を受けてきた人々の声を受け入れない、
左遷によって有意義な発言・発案を抑える状態では、
信徒の声も、時宜に応じた世間のモラルも受け入れられないでしょう。
結果的に、宗門はいつまで経っても、生息域の狭い「生きた化石」の状態を抜け出せないよ?w)
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
プロフィール
HN:
ぺんぎん
性別:
非公開
リンク
P R
Copyright ©  -- オアシス035 サイト管理人のブログ --  All Rights Reserved
Designed by CriCri Material by 妙の宴
powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]